楽をすることの意義と社会観
効率化による「楽をする」こと
みなさんは「仕事で楽をする」と言われて、どう感じるでしょうか。
手抜きのように、あるいは悪いことのように感じる人も居るかもしれません。
しかし、少なくとも私は、そうは思いません。品質も含めて同じ結果を出しているなら、過程で楽をしようが、苦労をしようが、結果は結果です。
まず、その点をはっきり書いておきます。
結果が全てではないけれど
誰しも、どんなことをするにしても「はじめて」はあります。あるいは「失敗すること」もあります。なので、結果「だけ」を見ることは、私は正しいとは思いません。
でも、「仕事をきちんと終わらせた」という結果が出ているなら、それを無視して、「苦労していない」とか「自動でやって楽をした」と言うのは、基本的には誹謗や、偏った考え方でしかないと思います。
たとえば「間違ったやり方で手を抜いた、今回はたまたま成功したけどそれは駄目だ」というようなケースはあります。必要な安全確認の手順を省いてしまった場合などがそれです。それは「継続性・再現性のない成功」なので、否定されるべきです。
しかし「安定して仕事を自動化する方法を用意して、危険性は従来と同等かそれ以下」であるなら、自動化で楽をしても、何ら非難されることはないと思います。
特に日本では蔓延しがちな「苦労をすればいい」という信仰を捨てて、「楽をすべきところ、楽をしても問題ないところは楽をする」ことを追求することが自動化の第一歩ではないでしょうか。
どうやって働きますか?
世間では「働き方改革」という言葉がもてはやされるようになりました。
自動化が必ずしも「働き方改革」に直結するとは限りませんが、逆に、「働き方改革」に無縁ではないと思います。
今まで手でやっていた仕事を減らすことができれば、仕事時間は軽減できます。
ストレスが溜まりやすい単純作業をコンピューターに任せてしまえば、頭を使うことはあっても、ひたすら単調な作業に拘束されることはなくなります。
ただし、これにはある種の、負の側面もあります。すなわち「自動化によって、仕事を失う人が出る」ことです。
コンピューターは大抵の場合、人間よりも高速に判断しますし、連続で稼働できる時間も人間の比ではありません。つまり、コンピューターによって仕事を自動化してしまうことは、その分、人の仕事がなくなるということでもあります。
「だから今までどおり手作業でやる」か、「それでも自動化による効率化を行い、それによって手が空いた部分を新しい価値にする」か。
そこで後者を選ぶためにも、常に、自動化して仕事を軽減した後に残るものを見据えていく必要があります。
綺麗事は言いません
コンピューターによる事務作業などを「自動化する」ことは、時として誰かの仕事を奪うことです。そのことに躊躇を感じる人も居るでしょうし、それは自然なことだと思います。
ですが、それと同時に、仕事を効率化して、精度や速度を上げたり、あるいはコストを下げられるということでもあります。
過度に他の人と争え、というわけではありませんが。それでも、仕事をする中での営業活動や、あるいは仕事を得るための就職活動など、直接的にせよ間接的にせよ、誰かと争わなければならないことはあります。
少子化による労働力の減少が叫ばれている昨今、社会はだんだん縮小していくわけですから、そういった機会はこれからどんどん増えるでしょう。
そのときに「自動化による、仕事場の業務プロセスの改善や、省力化ができる」ことを武器にできる。
今、自動化の技術を学ぶことは、大げさな言い方をすれば、そういったことだと思います。